喜久春 和菓子職人について

創業者 西山喜久治【平成24年度 京都府「現代の名工」受賞】

人に歴史あり、喜久春はどのようにできたのか
竹の子最中はどうやって生まれたのか
創業者の半生をご紹介いたします

本場京都で素材にこだわった和菓子づくりを続ける

「まんじゅうをたらふく食べたい」思いで和菓子職人の道へ

兵庫県丹波市の農家で生まれ、父親から「手に職をつけろ、そうすれば食いっぱぐれがない」と言われながら育った。大工として手に職をつけた兄を見ながら、自分は指物大工(たんすや机など板を差合せてつくる木工品の専門職人)になろうと思っていたが、近所の指物大工が早朝から夜遅くまで仕事をしているのを見て「俺には無理だ」と思った。
ある日、兄が食べ残した饅頭を見て「うまそうだ たらふく食べてみたい」子供だった西山にとって、普段あまり食べることのできない饅頭への思い入れが高まっていった。

中学を卒業後、京都府福知山市の和菓子店に住み込みで奉公に入った。高校の通信教育を受けながら菓子づくりの修行を始める。
最初の仕事は道具の洗い物だった。朝4時に起きて、冷たい水でひたすら洗い物をするだけの日々。
修行を始めて2年が経過したころ、過酷で厳しい仕事に耐え切れず、実家に逃げ帰り父親に助けを求めた。父親から帰ってきたのは「メシの種を作るのに2、3年でできるわけがないだろう」という厳しい言葉だった。仕方なく奉公先の菓子店に戻ったが、あの時父親に追い返されていなかったら今の自分はいないと振り返る。

■修行の日々から菓子職人としてさらなる高みへ

洗い物に明け暮れる日々は3年続いた。ようやく餡を炊く仕事をさせてもらえるようになった。
親方や先輩に教わりながら、餡炊きに適した温度や煮え具合を覚えた。餡炊き、焼菓子、包餡の仕事、
約10年かけて和菓子づくりの技術を一通り覚え、菓子職人としてさらなる高みを求めて、和菓子の本場、京都市で修行することを決心し、老舗菓子店に菓子職人として入った。
修行を始めて驚いたのは、菓子技術の高さだった。「世界が違いすぎる。自分の技術は思っていた半分くらい」京都で通じる菓子職人の技術に近づきたいという思いで修行に励んだ。
その後、大手菓子会社に入り菓子製造機械について学んだ。

■長岡京市に菓子店をオープン、看板商品「竹の子最中」を開発

昭和53年、長岡京市のスーパーの片角に小さな菓子店をオープンした。
長岡京市を選んだのは京都府で一番人口が増加していたからだが、店をオープンした途端、人口増加が止まってしまった。商売を始めて4・5年経ったころ、本格的な和菓子製造販売を行うため、現在の場所に「菓子処 喜久春」を創業し、同時に看板商品の開発を始めた。

街のお土産になるような看板商品として、思い浮かんだのは地元特産品竹の子を使ったもなか。
香ばしい最中の皮の食感と餡の甘さのバランス、竹の子の風味、3年かけて試行錯誤し完成にこぎつけた。餡の原料となる小豆は生まれ故郷の丹波産小豆、最中の皮は石川県の新大正米。
「これまで学んできた技術の集大成」という竹の子最中は、全国菓子博覧会総裁賞受賞し、地元のお土産として親しんで頂いている。

■生涯現役、京都府「現代の名工」受賞

50年以上和菓子づくりを続けてきた西山がこだわってきたことは、
「原料を見極め、加工技術でそれを生かす」
今でも、健康志向の高まりを意識した新商品開発、後進の育成に力を注ぎ、
時代に合わせた製法や技術を変えながら、地元に根付いた和菓子を作り続けている。

2016年3月月刊商工会より抜粋

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